創業者

矢島 繁


「食を通して、人の健康と日本の農に貢献したい。」と思い、1997年有限会社モリシゲ物産を設立。 健康機能の高い「荏胡麻」の栽培を中心に、自ら耕し、研究開発、流通を考え、都市と地域の循環をめざし、 1999年 福島県に農場を構えた。2011年東日本大震災で13年間育んだ農園の移転を余儀なくされたが、 埼玉県秩父市に農園を移し、生産をつなげた。創業時の初心を貫き、未来を見据え「食や農、人の健康」というテーマと向き合い続けている。

生産者の言葉

1.「食」文化の伝承

時代と共にものごとの利便性は高まりましたが、一方で本質的な「食」と「文化」の枯渇と荒廃を強く感じています。 その源は「農」にあって、「農の再生」が日本の食文化の再生と伝承につながると信じ、日々取り組んでいます。 次代の農業を、都市と地域の農を取り入れた循環事業」として行うことを願い、その先の、 日本の素晴らしい食文化の再生と伝承に強い思いがあります。

2.「縁」を大切にする

荏胡麻栽培を始めた時も、秩父で新たにスタートを切った時も、多くの協力と支援に支えられてきました。 ブームや、TV報道の影響等で「荏胡麻」の需要が大きく変化しますが、継続して使っていただいている皆さまのことを忘れず、 「縁」を大切にしたいと思います。

3.「自然」や「地域」と共に

日々自然と向き合いながら生きています。自然は生き物ですから、思い通りになどいきません。 自身過去に4度の大震災に遭遇し、自然の大きな厳しさを身をもって感じてきました。 しかし、苦境にあっても、運命に耐え、助け合っていくことがこれからの私たちの使命と思っています。 困難は力となります。自然の脅威と向き合うたび、その地域の活力や文化、風土や歴史や、ふとした風景に勇気をもらいました。 自分たちらしく在る、それが自然や地域と共に生きることと思っています。

4.大切なものを未来へ

食を育む大地の力、命に溢れた自然の恵み、そういった大切なものを「次代につなぐ」。 伝統や職人の知恵、古老たちの話など、私たちが大切と感じているものを、仕事を通じて「未来へ伝える」ことに喜びを覚えます。 時代と向き合い、試行錯誤をしながら様々な課題に取組みたいと考えています。

2019.7.11 矢島 繁




荏胡麻の栽培 ~ 福島編 ~

私たちの荏胡麻の栽培は、福島で始まりました。まずは気象条件が重要でした。 荏胡麻栽培には高山冷涼な地で、寒暖差が大きい土地が適しています。 この条件を、私の故郷である新潟県山古志村と同じ北緯37度上で探していくと、福島県阿武隈高原の牧場跡が見つかりました。

土地は荒廃しており、柳や桑の木などがしげっていたところを、全て自力で開墾しました。 素人同然の状態から始まり、近隣の農家の方にクワの持ち方から基礎を学び、毎週埼玉から福島へ通って開墾を続けました。 1つの畑で荏胡麻が作れるようになったら、そこで栽培しながら隣を開墾する。年月を重ね、やがて地元の方々も協力してくれるようになり、 2011年には栽培面積5ヘクタールにまで増えました。


農業への取り組み ~ 秩父編 ~

2011年、東日本大震災が発生しました。 東京電力福島第一原子力発電所での事故が起こり、30Km圏内にあった福島農場は警戒区域となってしまいました。 小型トラクターが搬出できたのみで、以降は地域一帯の出入りも耕作も禁じられ、やむをえず農場の移転を決意しました。

諦めることなくすぐに埼玉県庁に出向き事情を説明したところ、埼玉県と秩父市から耕作放棄地を紹介していただき、 リースで秩父に農業参入することができました。 しかし現実は厳しく、土地はトンネル工事の残土やサッカーボール大の岩がゴロゴロと出てくる荒れ地でした。途方に暮れました。 しかし、そんな状況を救ってくれたのはボランティアや地元の方々の協力や支援でした。 苦境を乗り越え、また秩父でゼロから一歩一歩前進を重ね、現在に至ります。

秩父農場は福島農場と同じく高山冷涼で、荏胡麻栽培には申し分ありませんでした。 またかつてはこの地でも、荏胡麻が栽培されていました。奥秩父には「二度芋田楽」という昔ながらの郷土料理が残っているのですが、 この田楽みそにも荏胡麻が使われています。つながりはあるのです。 生産する地域こそ変わりましたが、荏胡麻の魅力を伝えていくことに変わりはありません。 福島で10年間育んできた荏胡麻の可能性を、秩父でより大きく開かせていきたいと考えています。 少しずつ地域を巻き込み、やがては産地化して行くことを目指しています。